平安時代末期、平清盛とともに同時代を生き抜いたのが清盛の妻・時子の弟であった平大納言時忠(1130~1189)でした。 当時の「平家に非ずんば人に非ず」という時忠の言葉からも分かるように、栄華隆盛を極めていたその平氏一門でしたが、富士川の戦い(1180)での敗退を契機に、その没落を余儀なくされていきます。
清盛の死後、倶利伽羅峠の戦い(1183)では、牛の角に松明をくくりつけて敵中に放した木曾義仲率いる源氏軍に平氏の北陸追討軍が撃破され、さらにその進軍、攻勢の前になす術なく京を都落ちしました。そして一ノ谷の戦い(1184)でも大敗し、つづく壇ノ浦の戦い(1185)で平氏は壊滅してしまいました。
平清盛の妻・時子の弟であった平大納言時忠(1130~1189)時忠はその壇ノ浦で源氏の捕虜となりますが、三種の神器のひとつ、神鏡を守ったという功績により減刑を願い出、また、娘・蕨姫を源義経に嫁がせたこともあり、平氏とはいえ文官であった時忠や時実ら九名は流罪となりました。 その後、時忠は配流先のここ能登国でその生涯を終えますが、親平氏貴族の働きかけにより、能登国では丁寧に遇されていたと言われています。
時忠は非蔵人(天皇の秘書見習い)から権大納言にまで昇進し、当時の政治家としては稀有の存在でしたが、その道のりは波乱に満ちたものでした。
流刑後は、四年近くをこの能登で暮らした時忠でしたが、文治五年(1189)二月二四日、その珠洲市大谷町で没したと伝えられています。